2000-03-01 第147回国会 参議院 予算委員会 第2号
昭和六十年事務次官に昇進、六十二年退官、そして、退官後、住宅・都市整備公団の副総裁から阪神高速道路公団理事長、住都公団の総裁、そして平成七年、東日本建設業保証の取締役社長と。この間、事務次官の退職金ほか、合わせて九千三百二十七万円の退職金をいただいていますということがそこに記載されています。
昭和六十年事務次官に昇進、六十二年退官、そして、退官後、住宅・都市整備公団の副総裁から阪神高速道路公団理事長、住都公団の総裁、そして平成七年、東日本建設業保証の取締役社長と。この間、事務次官の退職金ほか、合わせて九千三百二十七万円の退職金をいただいていますということがそこに記載されています。
───────────── 一、国家公務員任命につき同意を求めるの件 検査官 杉浦 力君 矢崎新二君八、九、二七定 年退官につきその後任 科学技術会議議員 石塚 貢君 大澤弘之君八、一二、二四 任期満了につきその後任 国家公安委員会委員 岩男寿美子君 二、二一任期満了につき再 任 ────────
昭和二十一年に東大卒後すぐ農林省の建設部門に入り、そのままずっと農林省、東北農政局建設部長を最後に昭和四十七年退官をされている。二十六年間農林省一筋です。それで、農林省と契約関係にある三井建設に天下るわけですから、普通ならここで人事院の審査が必要になってくるのでありますが、昭和四十七年七月から五十年六月までの三年間、水資源公団に在職されている。
そして、昭和三十八年十二月、厚生次官を命ぜられるや、四十年退官されるまでの間、公害審議会、公害防止事業団の創設などの公害行政の推進、老人福祉法の施策推進、母子福祉法の制定など、福祉行政の充実、それに一万円年金の実現など、厚生行政の今日的課題に対し適確な諸方策を講ぜられたのであります。
石田正、これまた大蔵事務次官、三十六年退官、四百五十五万七千八百円、そして三十六年六月に国民金融公庫の総裁になりました。四十二年の四月に退職ですね。この退職金が千六百十五万二千五百円。合計二千七十一万三百円。現在、日本輸出入銀行総裁で四十七万円の給料を取っている。さらに酒井俊彦、これまた元大蔵省為替局長で、三十五年に退官で二百七十万円の退職手当。そして三十五年の四月に日本輸出入銀行の理事。
私はここで重政副議長の問題について一言言わなければなりませんが、重政副議長は、先ほど占部議員もその経歴の中で言われましたように、旧東京帝国大学の農業経済科を卒業され、その後、農林省開墾課長、岡山県農地事務局長を経て、昭和二十八年退官され、その後、参議院選挙に当選後は、自民党政策審議会委員、政務調査会副会長をされ、農林水産常任委員長をされまして、その後……
手島君は、明治二十九年鳥取県米子市に生まれ、大正十一年東京帝国大学を卒業され、直ちに逓信省に入り、昭和十八年退官されるまでの二十有余年間、逓信事業の発展に精根を傾けられ、その間、経理局長、航空局長官、逓信次官等を歴任、生来の卓越された識見と剛毅濶達をもって、常に敏腕をふるわれ、ことにその実行力は抜群であって、つとに省内随一の切れ者として高く評価されていたのでありまして、その逓信行政に残された功績は、
勝俣稔君は、お手元の履歴書にありますように、大正八年大学の医学部を卒業後、しばらく大学助手を勤め、後、大正十二年内務省衛生局に入り、昭和十三年厚生省の設置とともに厚生省に転じ、予防局予防課長、同結核課長、衛生防疫課長を経て、予防局長、衛生局長となり、昭和二十一年退官に至るまで、二十余年間の長きにわたって終始一貫、衛生行政、なかんずく予防行政に力をいたして来たものでありまして、退官後も引き続き厚生省顧問
先ほど来提案者は昭和十一年から昭和十七年、あるいは十九年退官に至るまでの、大東亜大臣退官に至るまでの大事な青木君の経歴を挙げることを省略をいたしました。これは不注意に省略をしたものかと思いますが、青木君の経歴の中に、昭和十一年対満事務局次長として満州事変後の満州かいらい政権を作って参ることに大きな戦前の功績を果してこられました。
次に、先ほどから岡現次郎さんのことをいろいろ他の委員がお聞きでございましたが、岡さんは昭和二十八年退官いたされまして、ただいま大日本図書株式会社の編集顧問でありますか、著作顧問ですか、どちらになっておりますか。
前田君は、明治二十年、三重県四円市に生まれ、大正二年、東京帝国大学法学部を卒業、直ちに職を鉄道省に奉ぜられまして昭和十二年退官せられたのでありまするが、その間、二十四年の長きにわたりまして、あるいは大臣官房人事課長、あるいは大阪、仙台の鉄道局長、本省の運輸局長、あるいは監督局長の要職を歴任せられまして、わが国国有鉄道史上大なる足跡を残されたのであります。
お手許の履歴書で御承知の通り、簗君は、大学卒業後内務省に入り、長野、大阪、京都各府県の健康保険課長を経て、社会局保険部の事務官となり、官制改正で保険院に移管後は、同院社会保険局、総務局の各課長及び本省人口局、健民局の各課長を歴任し、昭和二十四年退官後は、司二十七年六月から同二十八年六月に至るまでの間厚生省設置法に基く社会保険審査会委員となり、同年九月一日社会保険審査官及び社会保険審査会法に基き任期一年
高木正夫君は、京都帝国大学卒業後鉄道省に入り大阪鉄道局運輸事務所長、門司鉄道局運輸課長、同局運輸部長、鉄道省陸運監理官を経て昭和十三年退官、同年日本通運株式会社に入社、爾来同社理事、大阪支店長、常務取締役に就任、現在豊国自動車株式会社取締役社長、輸入自動車協会々長等の職にあり、この間昭和二十五年六月参議院議員に当選現在に至つたものであります。
又、島君は、大正七年大学卒業後、農商務省に入り、昭和十五年退官に至るまで商品取引所に関する主管部課に勤務し、取引所の運営指導に当つて来た行政面の権威者であります。 藤田君は、大正六年大学卒業後、農商務省に入り、島君同様、商品取引所の主管部課に勤務し、之が監督行政に当つて来た者であり、取引所について広い識見と抱負を有するものであります。
土田君は、大正十年、大学卒業後外務省に入り、公使館三等書記官、大使館三等書記官、大使館二等書記官、大使館一等書記官兼総領事、大使館参事官として中華民国又は仏国に在勤し、その後、特命全権公使として中華民国に駐剳を命ぜられ、昭和二十四年退官し、本年四月中央更生保護委員会委員となり、七月まで在職した者であります。
人間野君は、大学卒業後大蔵省に勤務せられまして、専売局販売部長、造幣局長、預金部長、銀行局長等を経て昭和十五年退官いたしまして、十五銀行副頭取、帝国銀行頭取に就任しておつた者でありまするが、現に蓬莱殖産株式会社取締役社長、宝酒造株式会社監査役、岩手県綜合開発顧問りとして、今日財界に活躍されているかたであります。
小田君はお手許の履歴書で御承知のように、大学の土木工学科を卒業後暫らく水力電気会社土木課長の職にありましたが、転じて農商務省技師となり、水産局に勤務して後、土木技師として千葉県の内務部に転出し、昭和二年に農林技師となつてから、昭和十八年退官に至るまで一貫して水産局に勤務し、この間水産講習所教授、水産試験場技師等を兼任した者でありまして、退官後は船舶無線電信電話株式会社顧問、旭造船株式会社取締役建設部長
岸君は、履歴書にありますように、大学卒業後大蔵省に入り、銀行局の課長、銀行検査官及び神戸税関長等を歴任し、昭和十七年退官して後、日本興業銀行理事、同副総裁及び総裁を経て、昭和二十四年六月、金融業に関し優れたる経験と識見を有する者のうち、大都市銀行関係者として日本銀行政策委員会委員を命ぜられ、現在に至つているものでありまして、今回政府においてその閲歴及び手腕より見まして、同委員会委員に再任しようとするものであります
遠藤君は、多年逓信官吏として電気通信関係事務に従事し、札幌、大阪の各逓信局長及び逓信省郵務局長等の要職を歴任し、昭和十七年退官の後は三井軽金属株式会社常務取締役、東北配電株式会社社長等を経て、昭和二十五年防腐木材株式会社社長となり現在に至つておるものでありまして、電気通信事務に深い経験を有する同君を、経営委員会委員に加えることは、我が国放送事業の発展に寄与するものであると存じますので、今回古宇田君の
飯田君は、お手許に差上げてあります履歴書で御承知のごとく、明治四十年大学卒業、鉄道院に奉職、鉄道省電気局長を経て昭和九年退官、翌十年十二月には貴族院議員に当選し、同十八年には運輸通信次官に就任、同十九年に依願退官してからは、社団法人鉄道電化協会々長、日本電設工業株式会社相談役等に就職、昭和二十二年四月には参議院議員に立候補して当選、三年の任期を終えた者でありまして、日本国有鉄道の能率的な運営、及びこれが